ダーク ピアニスト
〜練習曲11 革命前夜〜

Part 4 / 4


 空は薄らと白み始めていた。が、事務所はまだ人の出入りがあって落ち着かなかった。
「ルビー、おまえが娘を守ってくれたそうだね。ありがとう。感謝するよ。さすがはグルドの未来を継承していくに相応しい者だ」
ジェラードは彼の肩を抱くとうれしそうに言った。
「いえ、僕はただ当然のことをしたまでです」
ルビーが言った。凄まじい爆風の中、彼はエスタレーゼを抱えてシールドを張った。そして、そのまま外に飛び出して崩壊する家から脱出したのだ。直後に通報を受けた地元の警察や消防などが駆け付けて来て事情を訊かれた。

――夜中に物音がして目が覚めたんです。それで、急いで階段を降りてみたら、突然、知らない男達がやって来て、家の者達と銃撃戦になったんです。もちろん、僕達も応戦しました。そしたら、突然爆発が起きて……。僕はエレーゼを抱えて外に出ました。あとのことはわかりません。だって、僕、エレーゼを守らなくちゃって、必死に外に飛び出したから……本当によく覚えていないんです

警察では何を喋り、何を言ってはいけないのか、彼は心得ていた。
「さあ、今日はもう疲れただろう。ホテルの部屋を取ってある。ゆっくり休みなさい」
ジェラードが言った。
「エレーゼは少し気分が悪くなったって、奥の部屋で休んでいるの」
ルビーが言った。
「ああ。無理もない。だが、どのみちここでは落ち着けんだろう。車を用意させた。もし起きられるようなら、連れて来てくれないか」
ジェラードの言葉にルビーは頷く。
「わかりました。呼んで来ます。僕も何だか疲れちゃった」
「そうだろうとも。だから、ゆっくりおやすみ」

ルビーはざわついている通路を抜けて、奥の部屋に向かった。そこはジェラードの執務室でもある。
「エレーゼ、起きてる?」
ルビーがそっとドアを開けて訊いた。
「ルビー……」
机の前に立っていた彼女がはっとして顔を上げる。
「気分はどう?」
「ええ、大分よくなったわ。ありがとう」
彼女は開いていたファイルを戻すと引き出しを閉じた。

「ジェラードが僕達のために部屋を用意してくれたって……。外で車が待ってるんだ。一緒に行こう」
「わかった。髪を直したらすぐに行くわ。だから、あなたは先に行ってて」
「でも……」
ルビーが心配そうな顔をして近づく。
「ほんとに具合が悪そうだよ。顔色もよくないし、熱でもあるんじゃない?」
そう言って触れようとする彼の手を避けて、彼女は僅かに後退した。
「エレーゼ……」
丁度昇り始めた太陽の光が、ブラインドの細い隙間から伸びて、その頬に当たる。宙に止まったままの腕を引っ込めて彼は言った。

「君、ほんとは僕のこと……」
胸の中に去来する不穏な影……。心の深海で遊ぶ小さな魚達を次々と飲み込んで行く闇。
(まただ)
築こうとした楽園はすぐに崩れ、握り締めた手の中でカラフルな魚達は骸に変わる。楽しかった空想は消え、たちまち水底に沈んだ古代都市の空虚さが広がる。
(闇が僕を蝕んでいく……)
悠々と泳ぐ鯨のようなその闇は、彼が大切にしていたものを奪い続ける。
「君は……」
「違うの。ただ、本当にわたし……」
込み上げて来るものを抑えるように、彼女は口元に白いハンカチを当てた。
「ごめん。ねえ、医者に診てもらった方がいいんじゃない? それとも薬を……」
ルビーが言った。
「大丈夫。少し休めば落ち着くから……。お願い、先に行ってて……」
「うん。それじゃ、僕は先に行くね」
そう言ってルビーは部屋を出て行った。

「ジェラード、彼女はまだ気分がよくないって……」
「そうか。それじゃあ、おまえは先に行って休みなさい。疲れただろう」
ジェラードが言った。
「うん。そうするよ。ありがとう」
ルビーは玄関に向かった。

「ギル!」
玄関ホールを出ようとした時、ギルフォートに会った。
「家が襲撃されて……」
そう言い掛けたルビーを遮って男は言った。
「わかっている。それで、心当たりは?」
「ないよ。けど、やったのはレッドウルフだ。それに、アメリアは薬をやっていたと思う。目が普通じゃなかったもの。でなければ、とてもあんなことできやしない。彼女は口は悪かったけど、酷いことするような人には見えなかった」
「買いかぶりはよせ。所詮、人間の本性など他人には計りしれん」
「でも……」
見上げるルビーの頭に軽く触れて男は言った。

「合格だ」
「え?」
「今回は、おまえの的確な判断によって彼女を救うことができた。これなら、ジェラードも安心して娘のことをおまえに任せられると思うだろう」
「僕に……?」
「そうだ。おまえが守るんだ。いいな?」
「うん、わかった。僕、きっと彼女を守るよ」
ルビーが頷く。
「車が待ってる。もう行け」
それだけ言うと、銀髪の男は踵を返し、奥の部屋へと歩いて行った。


 「ウサギ……」
走行する車のウインドーを見つめてルビーが呟く。
「何?」
運転していた男が背中越しに訊く。
「僕のウサギ、あの家に置いて来ちゃったんだ」
崩壊して行く家の中で、置き去りにされたぬいぐるみ……。
「ずっと僕と一緒だったのに……」
車に乗っているのはルビーと茶色い巻き毛の運転手の二人だけ。10分待ったが彼女は現れず、結局ルビー一人を乗せて先に出発することになったのだ。
「ウサギか……」
運転手が呟く。

「知っているか? ウサギってのは淫乱なんだぜ」
下卑た笑いを浮かべて言う。
「淫乱?」
怪訝そうに訊くルビー。
「ああ。清純そうな顔をして、あの女が何をしてたか知ってるか?」
「あの女って?」
「おまえの大切なウサギちゃんのことさ」
男の水色の瞳が細くなる。
「エレーゼのこと? 彼女が何だって言うの?」
信号待ちをしている時間……。倍速でルビーの胸の中に不安が広がって行く。

「あの女、妊娠してるぜ」
僅かに振り向いて言う男の瞳は、空にコンクリートが映ったように褪せていた。
「まさか? 僕はまだ何もしてないよ。赤ちゃんができるようなことなんか何も……」
ルビーが真剣な顔で言うので、男は笑いだした。
「そうだろうとも。ならば、誰が女を孕ませた?」
「嘘だ! でたらめ言うな! 彼女を侮辱すると許さないぞ!」
ルビーが怒鳴る。

――少し気分が悪いの

滲んで行く言葉……。水の砦に腰掛けている人魚。遠い眼差しの向こうにあるもの……。
(消えてしまえ!)
彼はそれを握り潰したかった。
「嘘だ……」
否定したくて声が震える。
「信じないならそれでもいいさ。何しろ、おまえは、その名も高い銀狼さんの大事なお人形ちゃんだからな」
「どういう意味だ?」
ルビーが低く抑えた声で言う。
「奴のテクニックは痺れるかい? そのテクニックを使って彼女も落としたのかなって言ってるのさ」

「殺すぞ」
ルビーがバックシートに手を掛ける。
「怒るなよ。おれは本当のことを言ってるんだ」
「本当のこと?」
「そうだ。このままじゃ、おまえ、いいように連中に使われるだけだぞ。みんな、おまえを利用しているんだ。いい加減気がつけよ。でないと、馬鹿を見るぜ」
朝陽の当たる街並みを車は進む。
「何故そんなことを言う? あなたには関係がないことでしょう?」
「そう。関係ないさ。けど、放っとけなくてね。何かさ、おまえを見てると弟のことを思い出すんだ。要領が悪くてお人好しで、いつも損なくじばかり引いてた弟のことを……」
「それで、弟はどうしたの?」
「死んだよ。見ず知らずの子どもを助けて、自分が車に轢かれたんだ。最後まで他人のために尽くしたのに、結局自分自身は報われずに死んで逝った」
そう言うと男は口を噤んだ。が、次の交差点で停止した時、ぼそりと言った。

「このままだと、おまえも奴らに殺されるぞ。組織では頭が切れてずるがしこくやれる者だけが生き延びるんだ」
ルビーはそんな男の言葉を黙って聞いていた。外では目覚めの早い鳥達が朝の音楽を奏でている。振動もなく、発進した車が角を曲がる。僅かに軋んだその音に紛れて男が言った。
「誰も信じるな。死にたくないならな」
通りでは、朝一番のパンを求めて女達が店の前に群がっている。すぐそこに見えて来たホテルの駐車場に車は滑り込んだ。

――信じるな。誰も……
――あなたのことも?
――そう。おれのこともだ

「ギルも昔そう言ったよ」
ルビーが言った。車が停車し、男は運転席を降りて後部座席のドアを開けた。
「あなたの名前は?」
ルビーが訊いた。
「そんなことを訊いてどうする?」
「覚えておくよ。すぐに忘れてしまうかもしれないけど、覚えておく」
「おれはケスナーだ。マウリッヒ ケスナー」
巻き毛の男は軽くその前髪を指で払って言った。
「それじゃね、モーリー。チュース!」
そう言うとルビーは建物の中に入って行った。
「マウリッヒだ」
男は言った。が、ルビーの姿はもう見えない。エントランスの硝子には朝の光がきらきらと反射しているだけだ。


 それから、どれくらいの時間が過ぎたのか、ルビーは思い出せずにいた。ただ、繰り返し見る夢の中では、いつも何かに怯えていた。倒しても倒しても襲って来る屍のように、きりもなく闇の獣が追って来るのだ。巨大な鍵盤の螺旋の上を懸命に走る彼を捕まえて引きずり倒し、闇が集まって彼の身体を貪り食おうとする。

――やめて!

その闇の中に見知った顔を見つけて彼は悲鳴を上げた。
「やめろ……!」
絡みつく闇を払おうとして叫び、そんな自分の声に驚いて目を覚ます。そこはベッドの中だった。もう何日も家に戻っていない。いや、正確に言えば、帰る家がない状態だった。アメリア達の工作によって破壊された家の修繕はまだ進んでいない。その間、彼らはホテルでの生活を余儀なくされた。もともと仕事の関係で旅行が多いため、ホテル暮らしには慣れていた。が、それでも今回は妙に落ち着かず、ルビーは何度も部屋を変えてもらった。
「きっとウサギさんがいないせいだよ」
新しく買ったぬいぐるみの数は増えるばかりだ。

――知ってるか? ウサギって淫乱なんだぜ

「だから、こんなに増えちゃったの?」
部屋中に置かれた大小様々なウサギ達がじっと彼を見つめている。
「モーリーが変なこと言うせいだ」
彼は天井を見つめて呟いた。
「眠れないならお薬をもらった方がいいわ」
エスタレーゼが言った。
「でも……」
「頭痛もするって言ってたじゃない。だから、今日は病院に行きましょう」
「エレーゼは? 君だってまだむかむかするって言ってたじゃないか」
「わたしのは大丈夫よ。その、病気じゃないから……」
「病気じゃないってどういう意味?」

――彼女は妊娠して……

ルビーが真剣な顔をして見つめるので彼女は少し俯いて答えた。
「女の人にはね、いろいろあるの。男性には理解できないかもしれないけど……」
「生理なの?」
ルビーが訊いた。
「え、ええ。そうよ。だから……」
戸惑いがちに彼女が頷く。
「僕、知ってるよ。ギルに聞いたんだ。女の人は月に一度生理ってのが来て大変なんだって……。だから、女性にはやさしくしなくちゃいけないって……」
「ギルフォートが……?」
「うん。だから僕、やさしくするね」
(妊娠なんかじゃなかったんだ)
ルビーはほっとして彼女を見上げた。が、そんな彼にエスタレーゼは言った。

「病院に行きましょう」
「いやだよ。僕のだって病気じゃないもの。ねえ、もし君が僕のウサギさんになってくれるなら……」
彼は強く彼女の手を握って言った。
「ねえ、いいでしょう? 今夜は僕と同じベッドで……」
しかし、彼女は首を横に振った。
「ごめんね、ルビー。言ったでしょう? 今日はまだ気分が悪いの」
「生理だから?」
「ええ」
「わかった。僕、病院へ行って薬をもらって来るよ」
肩を落として彼は言った。そうでなければとても眠れそうになかったからだ。


 そして、その晩、ルビーは夢を見なかった。が、真の悪夢は目覚めから始まった。
「ルビー! 起きて」
突然揺り動かされて彼は眠い目をこすりながらぼんやりと彼女を見た。
「支度をして。すぐに出発するわ」
「何? もう朝なの?」
昨夜飲んだ睡眠薬のせいでルビーの意識は朦朧としていた。
「何処に行くの?」
窓の外は暗い。部屋の照明も絞られていた。
「いいから早く! 今を逃したら永遠に逃げられない」
その時が来たのだとルビーは思った。
「待って。持って行く物なんかないよ。着替えたらすぐに行ける」
「それじゃ急いで。わたし、先に行ってる」
そう言うと彼女は部屋を出て行った。

(一体何があったんだろう)
ルビーは大急ぎで服を着た。それから上着を取るとポケットの中の銃を確かめ、ドアノブに手を掛ける。机の上にあったウサギと目が合った。ルビーはひょいとそれを摘むとポケットに入れた。と、突然、銃声が響いた。
「エレーゼ!」
通路へ出ると冷たい夜気の中に微かな硝煙が漂っている。
「エレーゼ!」
彼は走った。冷たい回廊はぐるりと建物を一周して裏庭へと続いている。そちらから複数の人間の気配がした。
(エレーゼ。どうして彼女を先に行かせてしまったんだろう)
彼は後悔した。

「くそっ! またレッドウルフの仕業か?」
執拗に追って来る彼らのやり口にいい加減うんざりしていた。
「違うな。あれはグルドの連中だ」
曲がり角から不意に現れた男が言った。
「モーリー……。君もその監視員の一人か? ずっと僕のことを付け回していたろう?」
「おまえじゃない」
薄く伸びた影が闇に溶ける。
「どういうことだ?」
内と外。温度差のある二つの空気が触れ合い、拮抗する場所に立って問う。
「女が裏切ったんだ。来い! 今なら間に合う」
ルビーの腕を掴んで男が言った。
「裏切った? どういう意味だ?」
「女がデータを盗んだんだ。あの狼野郎と組んでたのさ」
「何を言ってるのさ? 僕にはわかんないよ。それに、やっぱり彼女が妊娠してるなんて嘘だったじゃないか! 彼女はただ……」
「馬鹿野郎! おまえは騙されたんだ! 奴らの口車に乗せられることはない。このまま付いて行ったら身の破滅だ。戻れ! おれが証言してやる」

非常口のライトがチカチカと点滅している。その光が男の顔に反射してまるで夢に出た怪物のように歪んで見えた。
「いやだ! 僕は信じない!」
(エレーゼが、ギルが、僕を裏切っているなんて……。一緒に行こうって言ったんだ。三人で一緒に日本へ行こうって……。約束したんだから……!)
「どけ!」
ルビーが怒鳴る。
「目を覚ませ!」
「うるさい! どかないなら殺す」

「ルートビッヒ!」
「何?」
そう呼ばれてルビーは驚いて男の顔を見た。が、次の瞬間。一発の銃弾がマウリッヒの胸を射抜いた。通路の入り口で銃を構えていたのはエスタレーゼだった。
「モーリー、どうして君が僕の名前を……。ルートビッヒって、僕の……」
ルビーが訊いた。銃弾に倒れた男は目を閉じたまま答える。
「ルートビッヒっていうのはおれの弟の名前さ。だから、おまえのこと、放っとけないと思っちまったんだ。おまえは弟とは違うのに……」
マウリッヒは床に突いた手を僅かに持ち上げた。ルビーはその手の下に持って来たウサギのぬいぐるみをそっと置いた。
「貸してあげる。安心して眠れるように……」
ふわりとしたやさしい感触に、男は微笑した。
「いいか? ルートビッヒ……おまえは生き延びろ。せめておまえだけ…は……」
「モーリー!」

――おまえは騙されて……

(そうかもしれない。でも……)

――一緒に日本へ

(それでも僕は信じたいんだ。だって僕は……)
「ルビー、正面は無理よ。裏門と西側にも見張りがいる」
駆け付けて来たエスタレーゼが告げる。
「囲まれてるっていう訳か? なら、正面から行こう」
「でも、正面には確認しただけで8人いた」
「構わない。正面には車がある。あれをもらって行けばいい。邪魔ものは僕が蹴散らすから……」
「ルビー……」

――おまえは騙されて

(構わない。僕は彼女を守る。たとえ地獄に落ちたっていい。彼女は僕が守るんだ)


 事務所の中は閑散としていた。響いているのは固い靴音。それが一つのドアの前で止まる。
「入れ」
ジェラードが言った。
「失礼します」
ギルフォートが靴を揃えて止まる。教会の鐘が聞こえていた。ジェラードは忌々しそうに手にした葉巻を灰皿に押しつけて言った。
「夜明け前、二人がホテルから逃亡した。説明は必要ないな?」
「Ja」
昨夜、エスタレーゼが何をしたのか、そして、ホテルに詰めていた連中にルビーが何をしたのか彼は既に情報を掴んでいた。だが、この作戦は未だフィニッシュを迎えていない。

「ならば、命令だ。二人を殺せ」
「……」
ジェラードは微かに含みのある笑いを浮かべて言った。
「殺せ。エスタレーゼ ラズレインとルビー ラズレインの二人をな」
「承知しました」
男は何の感情も見せずに答えた。


 その頃、ルビー達は北西方向へ向かっていた。車を二度乗り換え、検問を避けてひたすらに進む。運転しているのはエスタレーゼだった。
「ルビー、追っ手の車はまだ見えない?」
スピードを落とさずに彼女が訊いた。
「ああ。それより、何処かで休んだ方がいいんじゃない?」
「大丈夫よ。それより、早く国境を越えて彼にデータを転送しないと……」
「でも……」
ルビーは彼女の身体のことが心配だった。
「あ、見て! お嫁さんだ」
ルビーが言った。丁度、教会で結婚式があったらしく、大勢の人達に囲まれて幸せそうな新郎新婦の姿が見えた。

「ほんと……。きれいね」
思わずエスタレーゼもそう言った。
「ねえ、僕達もあんな風に結婚式を挙げる?」
「そうね……でも……」
エスタレーゼが少し寂しそうな顔をして言った。
「ドレスはまだ仕上がっていないの」
仕立てた店に取りに行くことは難しいだろう。それを察したルビーが言った。
「ねえ、今すぐ結婚しよう。ドレスがなくても構わない」
「でも……」
「僕、これを持って来たんだ」
そう言ってルビーがポケットから小さな箱を出した。
「それは?」
蓋を開くと、そこには美しいプラチナの指輪が二つ並んでいた。
「ルビー……」
「ねえ、僕が教会のオルガンを弾くよ。だから、二人だけの結婚式を挙げよう」


 そうして、彼らは国境近くの村の小さな教会で形だけの式を挙げた。誰もいないその教会で証人になってくれたのは聖母マリアの頬笑みだけ……。
「病める時も健やかなる時も、この愛を永遠のものとしてここに誓います」
「永遠に……」
彼らは指輪の交換をし、誓いの口づけを交わした。そして、ルビーがオルガンを弾いた。メンデルスゾーンの華やかな調べが聖堂の中を満たした。縦に伸びた高い窓から差し込む光……跪いて祈りを捧げている彼女の横顔。そこに灯る光は、まるでオーロラのカーテンのようにやさしく揺れて高い天井へと続いていた。
「何を祈っていたの?」
演奏を終えたルビーが訊いた。
「懺悔とこれからの幸運を……」
「そうだね。僕も祈るよ」
そうして、彼もまた膝を突いた。

 それからまた、彼らは車を変えた。が、出発して間もなく彼女はブレーキを掛けて止った。
「どうしたの?」
「ごめんなさい。ちょっと気分が……」
「大丈夫? 少し休もう。無理しちゃ駄目だよ」
「でも……」
国境は目の前だった。そこまでは何としても辿り着きたいと彼女は考えていた。が、ルビーは休まなければ駄目だと言う。彼らは村の外れの空き地に車を止め、仮眠を取ることにした。

 そして、空の月が傾き掛けた頃、
「エレーゼ……」
ルビーの手が眠っている彼女の服の下に滑り込んで来た。
「ルビー……!」
「ずっと君が欲しかった……。でも、僕は馬鹿だから、教えてもらうばかりで、何も君にあげられるものがなかった。けど、今は……。大人になって、強くなって、君を守ってあげることだってできる。君に愛をあげる。だから、お願い。僕と……」
「ルビー……。何を言ってるの? やめて。今はとてもそんな気分じゃ……」
彼女の白い肌が月光に透ける。そして、彼の傷付いた身体の影が浮かぶ。
「いや……!」
彼女の手がルビーの胸を突いた。
「どうして? 何故僕じゃ駄目なの? 僕達、結婚したんだよ。なのに……!」

――彼女は妊娠して……

「どうして……!」
ウインドーに拳を当てて彼が俯く。その目に光る月の光。
「ルビー、ごめんね。でも、わたし本当に……」
彼女はドアを開けると外に出て嗚咽した。
「エレーゼ……」
背後に立った彼の影が怪しい獣のように歪む。
「来ないで……!」
怯えたように彼女が言った。
「わたし……本当はあなたのこと……」
「言わないで!」
彼が制した。
「わかってる。だから今は……」
(夢を壊さないで……)
指に止った夜光虫。彼女の薬指にも、それと同じ色彩が宿る。
「君は僕の心を受け取ってくれた。そうでしょう?」

――国境を越えたら、日本へ……

頭上で星が瞬いていた。
(その光の数と、切り刻まれた僕の傷……。一体どっちの数が多いだろう?)
「ごめんなさい……」
二人は黙って星を見つめた。

 それからしばらくの間、彼女は懸命に吐き気を押さえて苦しそうだった。
「僕ね、日本に行けなくてもいいんだよ」
突然、ルビーが言った。
「ずっとこのままでいてもよかったんだ。だから、君がそんなにも苦しいなら戻っても……」
しかし、彼女は首を横に振った。
「できないわ。今更元には戻れない。それに、あなただってこのままじゃいけない。あなたは光の世界へ……」
「エレーゼ……」
(どうしてこんなことになったんだろう?)
頭の中に響くのは革命のエチュード……。
(早過ぎる……ずれて行くリズム……。乖離したメロディーの悲しい悲鳴が聞こえる)
ルビーは固く唇を噛むと彼女の白い横顔を見つめた。
「薬を買って来るよ。それと食べ物。早く元気にならなきゃ……」
「ルビー……」


 夜明けに起こされて薬屋の主人は不機嫌だった。が、事情を聞くと急に真剣な顔をしてあれやこれやと勧めて来た。
「そうか。胸のむかむかならこの薬が効くんだが……。若い娘さんなら、ひょっとして妊娠してるってことはないかね?」
「いいえ、多分違うと思います」
ルビーは言ったが、薬屋の主人は慎重だった。
「確かかね? 万が一妊娠していたら大変だ。薬を服用する前にこの妊娠検査薬で確認した方がいい。それと若いもんにはこいつも必要だろう。持って行くといい。日本製のなかなかいい品物だよ。少々値段が張るんだが、フィット感がいいって評判なんだ」
「日本製の?」
ルビーがうれしそうな顔で訊く。
「そうさ。入るそばからあっと言う間に売れちまうんだ。が、ちょっと待て、おまえさん、随分と可愛い顔してるけど、十代ってんじゃないだろうな?」
「違います。そんなにいいならもらって行くよ」
結局全部買わされた。が、彼はすっかり気をよくしていた。

外に出るといつの間にか朝陽が昇り始めていた。朝一番のパン屋が店を開いている。何人かの主婦達はもう集まっていた。
「美味しそうなにおい……。僕も買って帰ろうかな?」
ルビーがそちらへ向かって歩き出した時だった。いきなり甲高い悲鳴が響いた。見るとよちよち歩きの赤ん坊が道路の真ん中で立ち往生している。
「車が……!」
ルビーは走って道路へ飛び出すと子どもを抱えて飛んだ。間一髪だった。運転手が慌てて急ブレーキを踏んだ。が、車が止まったのはそこから十数メートルも先だ。青ざめた顔の運転手が降りて来た。その子の母親と近所の人達も出て来た。
「ありがとうございます。本当に……」
「せめてお礼を」
「よかったら家で朝食を……」
皆が口ぐちに感謝した。
「あ、あんた昨日、教会でオルガンを弾いていたろう?」
パン屋のおかみが言った。
「え? ええ。でも、どうして?」
「そりゃあ、素晴らしい音色が響いていたからね。思わず聞き惚れちまった。あれはウェディングマーチだね。誰かが結婚するのかい?」
「ええ。僕と彼女が……。二人だけで式を挙げたんです」
そう言ってルビーは頬を赤らめた。
「そうかい。それはおめでとう!」
「おめでとう! お幸せに!」
皆からたくさんの祝福の言葉をもらい、パン屋のおかみからはたくさんのパンをもらった。彼はすっかりうれしくなってエスタレーゼの元へと急いだ。

(みんな、いい人達…ばかりだった。こんな素敵な村に住めたらいいのに……)
お礼にもらった焼き立てのパンのいい香りに包まれてルビーは幸せだった。
(早くエレーゼに教えてあげよう)


 しかし、村の外れの曲がり角まで来た時だった。周囲に異様な雰囲気を感じて彼は足を止めた。
「何? 血のにおいがする……」
ざわざわと鳴る木の葉の音に混じって微かな呻き声が漏れていた。
「エレーゼ!」
彼は持っていた荷物を放り出すと一目散に駆け出した。周囲には錯綜する足跡。血と複数の薬莢を見つけた。車の向こうに蠢く影……。
「誰だ!」
車の屋根に飛び乗ると彼は叫んだ。彼の周囲に闇の波動が広がって行く……。が、その光景を見た時、彼の心臓は凍りついた。

「エレーゼ……!」
彼女はそこから十メートル程離れた樹の根基に倒れていた。ルビーはそこから飛び降りると彼女の元へ走った。
「エレーゼ、一体これは……」
そっと抱き起こすと彼女の半身は流れ出た血でべったりと汚れていた。
「誰が……。誰が君にこんなことを……!」
「追っ手が来たの……。お願い。ルビー、これをギルに渡…して……」
それはメモリーカードだった。爪の先程の小さなカードに収められているデータは計り知れない情報を含んでいる。

「ご…めんね。ルビー……あなたを逃がしてやれなくて……」
「逃がす? 何から逃げなきゃいけないの? 僕は何者からも逃げたりしない。逃げやしないから……!」
顔を近付けると彼女の手がそっと彼に触れた。
「愛しているよ。だから……」
「わたしもよ。ルビー、だから、あなたは生きて……。お父様はあなたが考えているよりもずっと……」
滑り落ちそうになる彼女の手を掴む。その指に輝く二つのリング。その緑色の光がルビーの瞳の内側で半月に歪んだ。
「エレーゼ!!」
その時、一発の銃弾が彼の右肩に命中した。

――あなたはルビーというの? 可愛い名前ね。わたしはエスタレーゼよ。ねえ、来て!わたし、花の中で黒髪の天使を見つけたわ

(降り注ぐ光の中で輝いていた……)

――諦めないで。きっとできるわ。ほら、アインツ、ツバイ、ドライ……もう一度

(光の中で……)

――もう一度聞かせて……。あなたのピアノを……

(エレーゼ……)
ルビーは彼女を抱えたまま意識を失った。その右手が微かに動いてメロディーを奏でる。その甲に伝い落ちる赤い旋律の楽譜を……。

「よし。麻酔が効いたか」
物影から出て来た複数の男が二人の様子を確かめた。
「おい、心臓が止まって……。二人とも死んじまってるぞ」
一人の男が驚愕したような声を上げた。
「馬鹿な? こいつに使ったのはただの麻酔弾だぞ」
「どうするんだ? 男の方は生きたまま連れて来いとのボスの命令なのに……」
遠くで聞こえるサイレンの音。
「仕方がない。このまま連れて行け」
彼らは慌てて二人を抱え、そこから立ち去って行った。


 「ギルフォート」
ネットカフェから出て来た男を金髪の男が呼び止めた。彼らは顔見知りだった。
「何の用だ、ブライアン……」
低い声でギルフォートが言った。
「データは手に入ったか?」
固い口調でブライアンが訊いた。
「いや」
「だろうな。彼女が盗んだのはダミーだ」
「……」
虚空の霧が彼らを満たす。

「レッドウルフの連中が二人を追ったぞ。ジェラードの命令でな」
「それで?」
銀髪の男が素っ気なく言う。
「おまえが二人を追い詰めたんだ」
「結果論だ」
「裏切り者め」
夜気に紛れて来る者の正体を彼らは知っていた。その闇の中で光るのはブライアンが投げつけた一枚の銀貨だった。
「拾えよ」
金髪の男が吐き捨てるように言った。
「貴様がユダだったとはな」

TO BE CONTINUED